2013年8月24日 (土)

ヘイトスピーチが正当化されることの怖さ

ヘイトスピーチという言葉がある。「憎悪表現」と訳されるもので、「人種民族国籍宗教思想年齢性別性的指向障害職業、社会的地位・経済レベル、外見などを貶め、憎悪、暴力をかき立てるような表現をすることがヘイトスピーチの特徴である。」と
ウィキペディアでは定義されている。

最近、ネット上でこのヘイトスピーチをよく目にする。特定のアジア諸国との外交問題や国民性の差異を取り上げての罵詈雑言がほとんどなのだが、それぞれの話者が何のためらいも躊躇もなく、そういった発言をしてのける感性が引っかかって仕方なかった。

確かに日本と特定のアジア諸国の外交関係は決して平穏とは言えないかもしれない。しかし、それは外交の問題であって、国民性の問題と短絡的に結び付けるべきではない。どんな根拠があったとしても「●●人は~」というステレオタイプのヘイトスピーチは避けられるべきである。

そういった偏狭なナショナリズムに疑いもなく加担してしまう無知と思考力の無さに驚愕してしまう。そういった人たちほど、「先日デモに参加してきた」と無邪気に語れてしまうのである。

昨今のデモブーム(あえてブームという)は、若者の自己顕示と繋がりを求める欲求の転化だという指摘がある。そういった自己の発露様式を否定するつもりは毛頭ないが、それが短絡的なステレオタイプに、無意味な憎悪感情に油を注いでしてしまうことにもっと自覚的にならねばならない。

もちろん「問題」だと言われていることに全く問題がないというコンサバティブでも私はない。しかしヘイトスピーチという幼稚な様式で自己の満ち足りなさを発散させるのではなく、市民社会の一員としてもっと理性的な方法で対処すべきではないかということである。本当にその問題を問題視し、純粋に関心をもっているのであればである。

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2013年8月 1日 (木)

一票の重みという欺瞞

先日「参議院選挙」が終わった。

 

終了直後に書き記しておきたかったのだけれど、なかなかブログを書くことに時間が割けず今日に至った。

 

書き記しておきたかったというのは、連日の選挙報道に違和感を覚えたからである。その違和感に向き合ってみて、何かしら言語化することに意味があるのではないかと感じたからである。

 

選挙制度の本質はやはり「個人の一票で社会を変える」(直接的に言えば特定の候補者を当選させる)であると考える。それは国民に与えられた選択権であり、国民に課される義務が正当化されるシステムと言えるかもしれない。

 

例えば消費増税が嫌だというのであれば、選挙で消費増税に反対する候補を当選させればいいのであり、選挙で消費増税を推進する候補が結果的に多く当選し、結果的に消費増税が実行されるならば、それは選挙によって国民の総意が反映させられた結果であるといえる。これは民主主義の至極もっともなロジックなのだが、あまりにこのロジックに頼りすぎ、周辺の意思への配慮が抜け落ちると若干の違和感が生じてくる。身近なとこでいえば、橋下大阪市長の政策運営手法があてはまるだろう。確かにその通りで間違ったことは言っていないが、あまりにも杓子定規な民主主義の解釈への違和感である。

 

 

結論から言えば、現在の選挙制度は「個人の一票で社会を変える」可能性を軸にした制度にも関わらず、「個人の一票で社会を変える」可能性は甚だ少ないのである。もちろん、現政権に対する不満が募り、それが「総体」となって、表に現れるのであれば社会は変わるであろう。しかし、それはいわゆる「世論」という波にのって、個々人の意思が「総体」といううねりになればこそである。結果論としては可能かもしれないが、個人が突発的に思い立った一票が社会を変える可能性はほとんどない。近年の投票率の低下というのも、人々がそういった「欺瞞」を無意識に感じているからではないだろうか。

 

さらに、そういった本質を無視して(触れてもどうにもならないので)、「あなたの1票が社会を変える」と喧伝する選挙報道にも「欺瞞」を感じた。ネット選挙の導入に関連して、若者の参画度合いの低さを非常に深刻げな表情で語り、選挙当日の報道では社会の命運をわける「運命の日」かのようなはではでしさで演出する。しかし今回の選挙は参議院選挙であり、もちろん今後の政局を占ううえで重要であるが、参議院に政局をコントロールする実質的な機能はほとんどない。そういったことを踏まえると、マスコミにとっては、選挙の結果などは実はどうでもよくて、いかに「お祭り」として「世紀の一大イベント」として選挙当日を演出し、人々の目をひくかが大切なのではないかと疑ってしまう。そしてそれこそが選挙報道の「個人の一票で社会を変える」という謳い文句に欺瞞を感じる構造なのではないかと考える。

 

別にマスコミ批判がしたいわけではない。マスコミやその他の権力性の欺瞞を指摘し、社会を変えてやろうと悦にはいってしまうことはあまり好みではない。そういった人こそ、他の人よりマスコミや権力性というものに執着しているだけではなかろうか。そもそもそんなものなのである。大切なのは正しく理解し、適度に距離をとることである。そういった意味で今回の考察をおこないたかったのである。

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2013年7月21日 (日)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか③

人がとる行動は、各個人のメリット(欲)によって規定されるのであり、どのような部分にメリットを求めるのか(自分の欲がどのように存在し、それをどのような形で表出するか)という心の癖は、まさに幼少期の親和的関係の内実によって規定されるのではないかというのが前回までのお話でした。

今回はその幼少期の親和的関係の内実についてお話しします。

結論を先取りすれば、自分の欲がいかに承認され、どのように抑圧されてきたかという自我形成の過程がまさに個人の心を癖づけるのだと考えています。

ただ、こういうと何か理想の形をした理念型の自我というものがあって、それが「正常」で、そこからずれると「異常」というような短絡的な発想に陥りがちです。人それぞれ姿形が異なっているように、別にどういった心の習慣が正しいのかというものはないと思います。ですが、その心の癖によって、本人が「しんどさ」や「生きにくさ」を抱えていたり、1回目に述べたようにその心の癖から派生する行為が非社会的(もしくは反社会的)なものになってしまうのであるならばそれは「問題」視していくべきでしょう。我々は一人で生きているのではなく、社会という公共性の中で生きているのですから。

話を戻します。人間の2者関係というのは、「承認」よって成り立ちます。「あなたはあなたでいいんだよ」という相互承認を与え合うのが人間関係の基本形であり、特に幼少期の親子関係では顕著です。

親は子ども(特に乳児)の存在をそのままに受け止める。子どもも親に絶対的な依存状態に身を置くことで(置かざるを得ないのですが)親を親として存在承認するのです。

そういった相互承認の中でアタッチメント形成が行われて行きます。

ところが、子どもがある程度成長してくると、子どもの存在をそのままに受け止めてばかりはいられないようになります。「しつけ」という概念が加わってくるからです。いくら子どもがある事柄を求めようとも、それが望ましくないことであれば抑圧していかなければなりません。それは子どもにとって将来役立つことですし、「しつけ」は欲に対する超自我を構築し、自我を確立させていくうえでなくてはならないものです。

しかし、その体験は子どもにとって、絶対無二の存在に自分の欲求が承認されなかったという自己否定感が強く与えられる経験になります。非常に「しんどい」状況になるのです。どうにかして親の承認を得るためにしぶしぶ自分の欲求を抑圧したり、親の要求(しつけ)に合わせようとするのです。そういった中で、自我の健全さを保ち、心の習慣を確立させていくのです。

ただ、その抑圧が厳しすぎたり、親の要求基準が理不尽であったり(ダブルバインドという状況も当てはめ得るかもしれません)、どう頑張っても健全な承認が得られないような状況であったりすると、自我の健全さ(ここでは主観的な意味合いの)を保つために心の癖というものが付いてくるのです。

自己中心的であったり、他人に責任を求めるようになったり、過度に自分を抑圧したりするようになったりと。その場の承認を得るためにその場しのぎの振る舞いをするようになったり、承認を得ようとするがために自己顕示欲というのが異常に強くなったりすることもあるでしょう。

幼少期のこういった体験は、個人の自我を形成する上で非常に大きな役割を持っていますが、その後の体験によって、また新たに癖づいたりする場合もあります。

話の収拾がつかなくなってきてるので、強引に戻しますが、要するに人間のメリットというのは自我の健全さを保つということなのではないのかなと思います。

自己がいかに承認されるか、「しんどさ」を回避できるかという側面です。「しんどさ」を回避できるのならば、一般的な倫理観や道徳観は軽視されたりもするでしょうし、もともとうまく形成されていない場合もあるでしょう。

あの人の信じられない行動を目にしたとき、あの人の自己承認スタイルという観点からその行動を捉え直してみてください。

また違った世界が広がっていくかもしれません。


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2013年7月15日 (月)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか②

前回の記事で、人間の欲は親との親和的関係の内実によって規定されると書きました。

 

もう少し言葉を変えて詳しく書くなら、人間の行動は、本来的な欲求とそれをコントロールする超自我との葛藤の過程から生じる産物だと捉えることができます。

 

人間の欲には様々なものがありますが、マズローの欲求の5段階説などは非常に有名です。生理的欲求 安全欲求 社会的欲求 自尊欲求 自己実現欲求といったように人間の欲求には発達的な段階があると指摘したのがこの理論です。

 

人は誰しもこういった欲求や不足を満たしたいという思いを持ちます。

 

しかし、人は社会の中で生きるがゆえに、他者との関係性を踏まえて、この欲求を満たしていかないと社会の中では認められません。

 

社会、つまり他者という総体の中で認められるという欲求を満たすということは、自分の中にある別の欲求を抑圧することになります。

 

社会の抑圧ルールが自分の価値観とは少し距離がある場合もあるかもしれません。

 

そのときにどのような対応をとるのかというと、人間は基本的に不快の感情状態を避けようとします。フロイトのいう自我の防衛機制です。

 

「抑圧」「投影」「同一視」「摂取」「合理化」「反動形成」「分離」「退行」「補償」・・・・など、心理学の教科書で目にしたことがあるかもしれませんが、人は実に様々なやり方で自我の安定を保とうとするのです。

 

もうお気づきかもしれませんが、この超自我と欲求との葛藤における二者のバランス、そしてその防衛機制の取り方(心の癖とでもいいましょうか)にまさに個人差がでてくるのであり、その原初的体験はまさに幼少期の親子関係ということになります。

 

ただ誤解がないように書いておきますが、幼少期の親子関係が重要であると言う意味であって、全てという意味ではありません。幼少期に健全なアタッチメント形成がされていても、その後の成長で独特に癖づいてしまうこともあります。

 

では、具体的にどのような親子関係の在り方がこういった違いになっていくのか。。結局そのための前準備になってしまいましたが、次でこそそれをお話しできればと思います。

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2013年7月12日 (金)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか①

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか。

 

日常の中で他人の理解しがたい行動を目にすることはよくあります。

 

平気でポイ捨てをしたり、列に割り込んだりといったマナーに関する行動もあれば、わがままだったり、平気で約束をやぶったりといった様な人間関係に関する行動もあります。

 

そういった人たちの行動(その他の全ての人や行動にもあてはまりますが)は、メリット(欲:フロイト流いえばエス)に基づいているのです。その行動がどのようなメリットに基づいて行われたのかということを考えてみると、理解不能だった他人の行動の原理が少しだけ明快にあらわれてくるかもしれません。

 

なぜメリットという言葉を使ったかというと、経済学で提唱され、政治学や社会学でもよく用いられる「合理的選択理論」を意識しているからです。

 

人間の「選択」は「合理性」に基づいている。

 

この理論の肝を簡潔に示すとこうなります。「選択」は「行動」と置き換えることができるでしょうし、「合理性」とは「メリット」があるかないかということでしょう。

 

ただ、この理論は経済学分野から提唱されたこともあって、「合理性」=「経済的メリット」と結びつけられることが多いのです。

 

つまり、1個120円りんごが売ってある5KM離れたお店と1個80円のりんごが売ってある10KM離れたお店であれば、人は「合理性」(ここでは40円の利益)を得るために10KM離れたお店までりんごを買いにいくということになります。

 

しかし、現実はそうではありません。

 

中にはあえて5KM離れたお店にりんごを買いにいく人もいるでしょう。

 

そうすると反合理的選択論者は、こういいます。

 

人間の行動は「非合理」であり、合理的選択理論の範疇で語りきれるものではないと。

 

ここで、40円の金銭的利益とプラス5キロの道のりの等価性を論点にして、あえて経済学の土壌で議論を押し進めることもできるかもしれません。

 

でも、僕はそうではなく、人間の「メリット」(欲)とは一体何なのかということを議論の俎上にあげた方が「実に面白い」と思うのです。

 

Aさんは40円の利益と5KMの道のりを歩く労力を天秤にかけて、あえて120円のりんごを買ったとします。

 

Bさんは、80円のりんごの方が安いとわかっていながらも、120円の店の主人にいつもお世話になっているからという理由で120円のりんごを買ったとします。

 

二人ともとった行動は同じですが、そのもととなっている行動原理は全く違います。Aさんは「経済的効率性」、Bさんは「人との信頼関係」といったとこでしょうか。

 

それぞれはそれぞれで実に合理的に動いているのです。(経済学的にいえば非合理でしょうが)

 

であるならば、どういった部分を価値づけるのという傾向は、どのように規定されるのでしょうか。言い換えれば、なぜ人によって違いが出てくるのでしょうか。僕は、それを親との親和的関係の内実という教育学的な部分に説明を求めたいと思います。

 

その辺りはまた次回にも。

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2013年7月 3日 (水)

【20130703】面接で語る

7月は相も変わらず暑い。

そして7月は相も変わらず教員採用試験の直前期である。
どのぐらい直前かというと、年の瀬でいえば、そろそろ紅白歌合戦が始まり、来るべき始まりに備えて街もしんとしずまりかえる時ぐらい直前である。

とすると、教員採用の講座や面接などの仕事のオファーも増えるわけで、採用試験終了後に激減するであろう仕事のオファーに怯えながら、とりあえず今稼げるものは全部稼いでおこうとするのは委嘱講師の悲しい性ともいえるし、一種の生き残り戦略ともいえるかもしれない。

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仕事前にスタバのロゴと向き合ってみる。

そういった立場上、教員志望者のカウンセリング(本格的な心理カウンセリングではない)に関わることがある。細かい内容は当然のことながらここに書くことはできないが、カウンセリングの中で教員採用試験の難しさというものを度々目にするのである。ここでいう難しさとは、教員採用試験もしくはその周辺で成立する資格産業が「努力をすれば誰でも教員採用に合格することができる」という前提で成り立っていることから生まれる難しさである。教員採用試験というのは、人物試験が重視されていることからもわかるように、極めて人間的で、はっきりとした客観的な基準を引くことができない性質を兼ね備えているからである。その難しさというものをいくつかに類型化してみよう。以下に示すものは、努力だけではなかなか変えがたい人間の根源やこれまでの生き様に関わる事柄である。

①明らかに教員に向いていない性格や雰囲気

 多様な教員が求められているのは事実だが、どうしても性格や雰囲気で損をしている人がいる。人前で話すのにどもってしまったり、内向的な性格であったりと。。そして一番母性的な関わりかけが求められる小学校教員志望であったりする。

②志望動機に教育的妥当性がない

 今の仕事が嫌だ、なんとなく人生の行き先を求めているというような動機が根底にある人もたまにみかける。もちろん表面には出してはいないが、話ぶりや話のロジックで多くは透けてみえる。結局は自己(欲求)との対話を繰り返し、理想の自己像と現実の折り合いをはかる必要がでてくるが、一教育機関のカウンセリング程度でそこまで介入することはできない。

③教師という仕事を塾講師と勘違いしている

 自分の専門性(語学が多いが)を子どもたちに伝えたいという動機を持っている人が多いが、「教員の仕事はそれだけではないですよ」と僕はいつも付け加える。子どもの人間的発達に関わる重要な役割を担うのであり、そこをもう少し自覚する必要がある。そういう人に限って、「筆記は完璧なんですが、勉強方法が間違ってるんですかね?」という質問をしてくるのだ。

20130627_181700講義前の控室。広すぎ。。

そしてなぜか写真が横に向くので、今日はここで終わりにしようと思う。

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2013年6月26日 (水)

【20130626】金沢で語る②

講義後、金沢駅まで戻り、お目当ての居酒屋「いたる」に向かう。

選考基準は食べログの評価がよかったという安直なものだったが、こういう時は王道に乗っかってみる方がだいたいうまくいく。こんなところで自分らしさを奇抜さに求めなくとも、出さねばならぬ時はそのほかの機会に山ほどあるだろう。

一か月前に予約をした時で既に満席に近い状態であった。

刺身の桶盛、のどぐろの焼き物、その他北陸の珍味(カニ味噌やふぐの卵巣)を天狗舞の大吟醸でいただく。日本酒にそんな詳しい訳ではないのだが、昔マンガ「美味しんぼ」で「天狗舞」が紹介されていたのを読んでから、日本酒といえば天狗舞と回路づけられている。

食べログにしろ、美味しんぼにしろ、要するに「権威志向型」なのかもしれない。

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次の日には金沢駅構内で寿司もたべる。
駅構内でこのクオリティ!

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おみやげはイカ!

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今回の金沢への出講で、意外にも印象に残ったのが、21世紀美術館である。
ちょうど「内臓感覚」という展示が行われていた。

「内臓」とは、人間の中で一番生々しい部分であろう。
身体性が凝固された部分であり、人間らしさであり、人間らしさゆえにグロテスクさやおぞましさを帯びているのかもしれない。

そういったものを表現する(「身体性の発露」)という行為を目の前にすることで、自分がいる「日常」と「非日常」とが倒錯する感覚を覚えた。

もう少し厳密にいうならば、「日常」が「非日常」を浮かび上がらせ、その「非日常」が「日常」を逆照射するという感覚である。

個々の作品の感想や解説は割愛するが、訪れてよかったと強く思えた。

ギフトショップのブックコーナーでやたらと鷲田清一が取り揃えられていたところを見ると、僕の考えたこともあながちずれてはなかろう。

そこで神戸の帰路用に文庫本を2冊購入したのであった。

山竹伸二「認められたい」の正体
四方田犬彦「かわいい」論

最後にお口なおしにレアンドロのプール。
まさに「日常」と「非日常」が交錯している。

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【20130626】金沢で語る

「新しい金沢、はじまる。」

という北陸新幹線のキャッチフレーズを記したそれこそ「新しい」看板を横目に、6月22日にサンダーバードで金沢入りをする。

ある大学での直前講習の仕事を受け持ったからである。

13:30の講義開始にも関わらず、大学側は12:30着を指定。
「なんでそんなに早く着かないといけないのか」と少し憮然としながら、金沢駅に降り立った。それこそ8年ほど前に一度金沢を訪れたことはあったが、ほぼ初訪問と言っていいだろう。

金沢は関西と比べると、やはり北陸であるためか、涼しい。

時間が少しあったので、スタバで時間をつぶす。

こういった時に、普段の習慣に従ってしまうというか、どこにでもあるスタバにいく必要はないじゃないかと日常から抜け出せない自分に嫌気がさしつつも、

「そもそも仕事やし、充電したいし、仕事の準備でWi-Fi使いたいし」と

それなりの御託を並べてみる。

金沢の商業施設は得てして空調が効きすぎていた。個人的には空調が無くてちょうど良いぐらいだったのだが。後で大学職員の方に尋ねてみると、暑くはないが蒸すらしい。たしかにじめっとしている。

12:30に合わせて、タクシーに乗り込んで、現地に到着。
エクステンションセンターの課長さんが出迎えてくれた。

10分ほど学生の状況や今年度の採用試験の傾向を話すと、「さあ行きましょう。車でお送りします」

1時間前到着を指定された理由がここでわかる。
どうやら車で15分ほどのとこにある研修所で直前合宿を行っているのだそうだ。
このキャリアサポートへの力の入れ具合には感心させられた。
1年次から本番の採用試験に向けて、大学主導で系統的に学習を行っていくらしい。

「13:00に学生は集合完了となっています」
「講義開始は30分からじゃないんですか?」
「着替えの時間があるんですよ。学生にはスーツ着用で受講することを義務付けているんですよ。」

おおおおお!

こっちは半袖のクールビズスタイル。
どちらかといえば、授業終わりの居酒屋飲みに気がいってしまっている。。

すいませんでした。。

そこまで真剣な想いを前にこちらも相応のもので応えなければと気合を入れ直す。

到着すると、「よろしくおねがいしまーす」と緊張感の漂う雰囲気。
僕にそんな敬意を払っても、特段何もメリットはないのだが、普段からそういったことを心がけることはよいことである。

講義内容の詳細は割愛するが、教育法規と教育時事、中でも注目を集めている「体罰と懲戒」「不登校」を中心に熱弁をふるう。

石川県教育委員会が「分権型社会」を掲げて市民運動に力を入れていることから、「生涯学習社会」の理念の解説にまで説明は及ぶ。

ただの語句知識の繋ぎ合わせでは、何も生まれない。重要な事柄を方法論化・パッケージ化することが僕の役割だと考えている。

終了後に職員さんに伺うと「ちょうどいいレベルで、試験前にぴったりでしたと学生が言っていました」とのこと、社交辞令かもしれないが、とりあえずよかったということにしておこう。

あれだけ情熱を傾けられる人たちこそが、教師として教育を担ってほしいなと改めて感じながら講義を終えたのであった。

その後の金沢の夜、そして21世紀美術館については、次回書くことにしよう。

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【20130626】ブログで語る

このブログで心機一転、何かを語ってみようと思う。
(新たに何かを語ってみたいという想いから、これ以前の記事は全て削除させてもらいました。)

思えばこのブログをつくったのは2005年、はや8年の年月が過ぎ去った。
「風と共に去りぬ」とは言うが、僕の8年は何と共に過ぎ去ったのだろうか。

・・・・

でも、過ぎ去った後に残る微かな残り香というか、じーんとしみいるような哀愁であるとか、そういったモノがあるからこそ、「過ぎ去った」という事実に彩りが加えられるのである。

シュワちゃんは”あいるびーーーばっっく!”という名台詞は、それまでの活躍があるから感動を誘うのである。他の登場人物にそこまでコミットしてなければ「どうぞご自由に」といったところであろう。

残り香というものが、他者へのコミットの結果だとするならば、どんな他者に、どのようにという問題が出てくる。

mixiやFacebookなど他者とかかわれるツールは多くあるが、どうもその内輪性というか内集団(人によって範囲は違うが)に対して「承認」のみを求める、もしくは内集団の「承認」のみを良しとするゲームに少し飽きてきたこともある。

ああいったSNSは度合いの違いはあれ、不特定多数の他者への「開放性」と繋がってる仲間同士の「閉鎖性」が絶妙に混在している空間である。だからこそ良い面もあれば、だからこそ視野狭窄に陥り、結局何がしたいんだろってことにもなりかねる。

何事も使い方次第なのだろう。

先日、夕方のニュースの特集で、数年前まで研究室で同期だったフィンランド人がイノベーションを起こすためのソーシャルビジネスを啓発する団体をたちあげたと紹介されていた。

僕の第一印象は「こんなところで何してるねん!」というものだったが、oxfordに戻らずに日本で健闘している姿、「社会学者」と名乗り、その専門性を社会に還元しようとする姿は、やはり北欧で生まれ育ち、イギリスで学問を修めた彼のアイデンティティがそのまま表れているのかもしれない。

とにもかくにも、「つぶやく」だけではなく、「語る」ということもしたくなったわけなのです。

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