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2013年7月21日 (日)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか③

人がとる行動は、各個人のメリット(欲)によって規定されるのであり、どのような部分にメリットを求めるのか(自分の欲がどのように存在し、それをどのような形で表出するか)という心の癖は、まさに幼少期の親和的関係の内実によって規定されるのではないかというのが前回までのお話でした。

今回はその幼少期の親和的関係の内実についてお話しします。

結論を先取りすれば、自分の欲がいかに承認され、どのように抑圧されてきたかという自我形成の過程がまさに個人の心を癖づけるのだと考えています。

ただ、こういうと何か理想の形をした理念型の自我というものがあって、それが「正常」で、そこからずれると「異常」というような短絡的な発想に陥りがちです。人それぞれ姿形が異なっているように、別にどういった心の習慣が正しいのかというものはないと思います。ですが、その心の癖によって、本人が「しんどさ」や「生きにくさ」を抱えていたり、1回目に述べたようにその心の癖から派生する行為が非社会的(もしくは反社会的)なものになってしまうのであるならばそれは「問題」視していくべきでしょう。我々は一人で生きているのではなく、社会という公共性の中で生きているのですから。

話を戻します。人間の2者関係というのは、「承認」よって成り立ちます。「あなたはあなたでいいんだよ」という相互承認を与え合うのが人間関係の基本形であり、特に幼少期の親子関係では顕著です。

親は子ども(特に乳児)の存在をそのままに受け止める。子どもも親に絶対的な依存状態に身を置くことで(置かざるを得ないのですが)親を親として存在承認するのです。

そういった相互承認の中でアタッチメント形成が行われて行きます。

ところが、子どもがある程度成長してくると、子どもの存在をそのままに受け止めてばかりはいられないようになります。「しつけ」という概念が加わってくるからです。いくら子どもがある事柄を求めようとも、それが望ましくないことであれば抑圧していかなければなりません。それは子どもにとって将来役立つことですし、「しつけ」は欲に対する超自我を構築し、自我を確立させていくうえでなくてはならないものです。

しかし、その体験は子どもにとって、絶対無二の存在に自分の欲求が承認されなかったという自己否定感が強く与えられる経験になります。非常に「しんどい」状況になるのです。どうにかして親の承認を得るためにしぶしぶ自分の欲求を抑圧したり、親の要求(しつけ)に合わせようとするのです。そういった中で、自我の健全さを保ち、心の習慣を確立させていくのです。

ただ、その抑圧が厳しすぎたり、親の要求基準が理不尽であったり(ダブルバインドという状況も当てはめ得るかもしれません)、どう頑張っても健全な承認が得られないような状況であったりすると、自我の健全さ(ここでは主観的な意味合いの)を保つために心の癖というものが付いてくるのです。

自己中心的であったり、他人に責任を求めるようになったり、過度に自分を抑圧したりするようになったりと。その場の承認を得るためにその場しのぎの振る舞いをするようになったり、承認を得ようとするがために自己顕示欲というのが異常に強くなったりすることもあるでしょう。

幼少期のこういった体験は、個人の自我を形成する上で非常に大きな役割を持っていますが、その後の体験によって、また新たに癖づいたりする場合もあります。

話の収拾がつかなくなってきてるので、強引に戻しますが、要するに人間のメリットというのは自我の健全さを保つということなのではないのかなと思います。

自己がいかに承認されるか、「しんどさ」を回避できるかという側面です。「しんどさ」を回避できるのならば、一般的な倫理観や道徳観は軽視されたりもするでしょうし、もともとうまく形成されていない場合もあるでしょう。

あの人の信じられない行動を目にしたとき、あの人の自己承認スタイルという観点からその行動を捉え直してみてください。

また違った世界が広がっていくかもしれません。


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2013年7月15日 (月)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか②

前回の記事で、人間の欲は親との親和的関係の内実によって規定されると書きました。

 

もう少し言葉を変えて詳しく書くなら、人間の行動は、本来的な欲求とそれをコントロールする超自我との葛藤の過程から生じる産物だと捉えることができます。

 

人間の欲には様々なものがありますが、マズローの欲求の5段階説などは非常に有名です。生理的欲求 安全欲求 社会的欲求 自尊欲求 自己実現欲求といったように人間の欲求には発達的な段階があると指摘したのがこの理論です。

 

人は誰しもこういった欲求や不足を満たしたいという思いを持ちます。

 

しかし、人は社会の中で生きるがゆえに、他者との関係性を踏まえて、この欲求を満たしていかないと社会の中では認められません。

 

社会、つまり他者という総体の中で認められるという欲求を満たすということは、自分の中にある別の欲求を抑圧することになります。

 

社会の抑圧ルールが自分の価値観とは少し距離がある場合もあるかもしれません。

 

そのときにどのような対応をとるのかというと、人間は基本的に不快の感情状態を避けようとします。フロイトのいう自我の防衛機制です。

 

「抑圧」「投影」「同一視」「摂取」「合理化」「反動形成」「分離」「退行」「補償」・・・・など、心理学の教科書で目にしたことがあるかもしれませんが、人は実に様々なやり方で自我の安定を保とうとするのです。

 

もうお気づきかもしれませんが、この超自我と欲求との葛藤における二者のバランス、そしてその防衛機制の取り方(心の癖とでもいいましょうか)にまさに個人差がでてくるのであり、その原初的体験はまさに幼少期の親子関係ということになります。

 

ただ誤解がないように書いておきますが、幼少期の親子関係が重要であると言う意味であって、全てという意味ではありません。幼少期に健全なアタッチメント形成がされていても、その後の成長で独特に癖づいてしまうこともあります。

 

では、具体的にどのような親子関係の在り方がこういった違いになっていくのか。。結局そのための前準備になってしまいましたが、次でこそそれをお話しできればと思います。

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2013年7月12日 (金)

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか①

あの人はなぜ信じられない行動をとるのか。

 

日常の中で他人の理解しがたい行動を目にすることはよくあります。

 

平気でポイ捨てをしたり、列に割り込んだりといったマナーに関する行動もあれば、わがままだったり、平気で約束をやぶったりといった様な人間関係に関する行動もあります。

 

そういった人たちの行動(その他の全ての人や行動にもあてはまりますが)は、メリット(欲:フロイト流いえばエス)に基づいているのです。その行動がどのようなメリットに基づいて行われたのかということを考えてみると、理解不能だった他人の行動の原理が少しだけ明快にあらわれてくるかもしれません。

 

なぜメリットという言葉を使ったかというと、経済学で提唱され、政治学や社会学でもよく用いられる「合理的選択理論」を意識しているからです。

 

人間の「選択」は「合理性」に基づいている。

 

この理論の肝を簡潔に示すとこうなります。「選択」は「行動」と置き換えることができるでしょうし、「合理性」とは「メリット」があるかないかということでしょう。

 

ただ、この理論は経済学分野から提唱されたこともあって、「合理性」=「経済的メリット」と結びつけられることが多いのです。

 

つまり、1個120円りんごが売ってある5KM離れたお店と1個80円のりんごが売ってある10KM離れたお店であれば、人は「合理性」(ここでは40円の利益)を得るために10KM離れたお店までりんごを買いにいくということになります。

 

しかし、現実はそうではありません。

 

中にはあえて5KM離れたお店にりんごを買いにいく人もいるでしょう。

 

そうすると反合理的選択論者は、こういいます。

 

人間の行動は「非合理」であり、合理的選択理論の範疇で語りきれるものではないと。

 

ここで、40円の金銭的利益とプラス5キロの道のりの等価性を論点にして、あえて経済学の土壌で議論を押し進めることもできるかもしれません。

 

でも、僕はそうではなく、人間の「メリット」(欲)とは一体何なのかということを議論の俎上にあげた方が「実に面白い」と思うのです。

 

Aさんは40円の利益と5KMの道のりを歩く労力を天秤にかけて、あえて120円のりんごを買ったとします。

 

Bさんは、80円のりんごの方が安いとわかっていながらも、120円の店の主人にいつもお世話になっているからという理由で120円のりんごを買ったとします。

 

二人ともとった行動は同じですが、そのもととなっている行動原理は全く違います。Aさんは「経済的効率性」、Bさんは「人との信頼関係」といったとこでしょうか。

 

それぞれはそれぞれで実に合理的に動いているのです。(経済学的にいえば非合理でしょうが)

 

であるならば、どういった部分を価値づけるのという傾向は、どのように規定されるのでしょうか。言い換えれば、なぜ人によって違いが出てくるのでしょうか。僕は、それを親との親和的関係の内実という教育学的な部分に説明を求めたいと思います。

 

その辺りはまた次回にも。

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2013年7月 3日 (水)

【20130703】面接で語る

7月は相も変わらず暑い。

そして7月は相も変わらず教員採用試験の直前期である。
どのぐらい直前かというと、年の瀬でいえば、そろそろ紅白歌合戦が始まり、来るべき始まりに備えて街もしんとしずまりかえる時ぐらい直前である。

とすると、教員採用の講座や面接などの仕事のオファーも増えるわけで、採用試験終了後に激減するであろう仕事のオファーに怯えながら、とりあえず今稼げるものは全部稼いでおこうとするのは委嘱講師の悲しい性ともいえるし、一種の生き残り戦略ともいえるかもしれない。

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仕事前にスタバのロゴと向き合ってみる。

そういった立場上、教員志望者のカウンセリング(本格的な心理カウンセリングではない)に関わることがある。細かい内容は当然のことながらここに書くことはできないが、カウンセリングの中で教員採用試験の難しさというものを度々目にするのである。ここでいう難しさとは、教員採用試験もしくはその周辺で成立する資格産業が「努力をすれば誰でも教員採用に合格することができる」という前提で成り立っていることから生まれる難しさである。教員採用試験というのは、人物試験が重視されていることからもわかるように、極めて人間的で、はっきりとした客観的な基準を引くことができない性質を兼ね備えているからである。その難しさというものをいくつかに類型化してみよう。以下に示すものは、努力だけではなかなか変えがたい人間の根源やこれまでの生き様に関わる事柄である。

①明らかに教員に向いていない性格や雰囲気

 多様な教員が求められているのは事実だが、どうしても性格や雰囲気で損をしている人がいる。人前で話すのにどもってしまったり、内向的な性格であったりと。。そして一番母性的な関わりかけが求められる小学校教員志望であったりする。

②志望動機に教育的妥当性がない

 今の仕事が嫌だ、なんとなく人生の行き先を求めているというような動機が根底にある人もたまにみかける。もちろん表面には出してはいないが、話ぶりや話のロジックで多くは透けてみえる。結局は自己(欲求)との対話を繰り返し、理想の自己像と現実の折り合いをはかる必要がでてくるが、一教育機関のカウンセリング程度でそこまで介入することはできない。

③教師という仕事を塾講師と勘違いしている

 自分の専門性(語学が多いが)を子どもたちに伝えたいという動機を持っている人が多いが、「教員の仕事はそれだけではないですよ」と僕はいつも付け加える。子どもの人間的発達に関わる重要な役割を担うのであり、そこをもう少し自覚する必要がある。そういう人に限って、「筆記は完璧なんですが、勉強方法が間違ってるんですかね?」という質問をしてくるのだ。

20130627_181700講義前の控室。広すぎ。。

そしてなぜか写真が横に向くので、今日はここで終わりにしようと思う。

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